演出と演技など
創作とは、つくっていくうちにどんどんカタチが
変わっていって、自分でも予期せぬものが生まれる
というのが理想だと思うし、それこそが自分の内なる
世界の探求だと思うのだが、実は演技もそうだと
つれが言った。
正確に言えば「委ねる」ということらしい。
これは監督に委ねるということではなく、
役や現場の雰囲気に委ねるということらしい。
頭でつくっている演技はつれにしてみれば面白くないそうで、
見れば一目でわかるらしい。
台本をあまり読み込まないでいくのも、
そういうことなのかと合点したことがある。
そういえば、かの溝口監督は
役者に対してあまり注文をつけなかったそうである。
ただひたすら「あなたは役者なんだから、照射してください」
と言い続けたと、なにかの本の中で読んだことがある。
「照射」とは、どういう意味で言っていたのだろうか。
その意味が、あるときにふとわかった気がした。
「どんな演技でもいいから、(基準を超える)
秀でた演技をしてください」
という意味ではなかっただろうか。
もしそうだとしたら、
なんと酷で、なんと役者に委ねた演出手法だろうか。
勿論、いろいろ試して後でいいとこどりしようという
受動的な演出のはずはない。
役者をそれだけ尊重しているのだ。(役者も冥利に尽きたであろう)
実際、優れた役者は自分で演出をつける。
だから感情移入しにくかったり、
理解できない役はなかなかできないのだ。
(意外と名優はなんでもできると思ってしまう)
さて、かの黒沢監督はどんな演出だったのだろうか。
想像だが噂に聞くほど縛らずに、役者に委ねていたのではないか。
何年か側で見ておられた大林監督に直接伺ってみたい。
大林監督にはCM畑出身なだけに、
親近感と近親的な意味で違和の感情があったかもしれない。
かつては軽い映画などと愚かなことを思ったこともあった。
(勿論、好みの問題もあると思いますが)
その斬新さをかつてのフィールドから自由になって理解するとは
皮肉であり、若さとは盲目だ。(自分はつくづく凡人なのかもしれない)
そしてつれが大林監督の作品に出た。
大林監督は明らかに新しい映画文法を切り拓いた方だと
今は思っている。
気負って狂いを持てはやしたり、そっちに向かう人はいても、
あそこまで自然な発露は大林監督にしかできない。
黒沢監督が認めたというのも頷ける。
映画の監督とは、自分流を切り拓く人のことだ。
実験などという生易しいことではなく。
それが商業システムの中でどれだけ難しいことか。
それを一番わかっているのも黒沢監督だったと思う。
しかし、なんといっても大林監督のCMだけを見て、
大林さんみたいな人が日本映画界に出てくるべきだ
と言った淀川さんが凄い。
自由な目を持った評論家が、かつては確実にいたのだ。
これはバカボンドを担当している編集の方から聞いた話だが、
韓国の映画監督たちは大林監督の映画に影響を受けているらしい。
映画ってこんなに自由でいいんだ、と。
中島哲也監督の成功も、大林監督の礎にあるのかもしれない。
アメリカではスパイクジョーンズの活躍が目覚ましい。
CM時代は彼の背中をずっと見ていた。
異業種からの彼らがアカデミー監督賞をとる日が来るのを、
心から楽しみに待っている。


